「人=モノ扱い」と人的資本経営

元陸上選手の為末大氏が2022年4月、facebookに「他人を物的に扱う癖」がつく企業文化があるけれど、昨今は労働力化(労働する機械=物化)していた個が、人間であることを意識し始めており、他人を物ではなく人として見るようにしないと、時代の変化とともにいろんな問題が噴出するのではないか、と書いておられました(https://www.facebook.com/tamesue/posts/5204402672978571)

 

時代が「ヒト」を重視する方向へ変化としているのは間違いなく、2020年には経済産業省が「人的資本」を重視する「人的資本経営」に関する研究会を立ち上げています(人的資本経営 ~人材の価値を最大限に引き出す~ (METI/経済産業省)。

経済産業省の「○○資本経営」といえば、実は人的資本の前が「知的資本」だったんですよね。
2000年代に盛り上がり、その後、定着せずとも消え去ったとも言えない「知的資本経営」の遺物(?)としては、知的資産経営マニュアル(https://www.meti.go.jp/policy/intellectual_assets/pdf/00all.pdf)、「知的資産経営報告書」(知的資産経営報告書の開示事例 (METI/経済産業省)などがあります。

「知的資本経営」が盛り上がる前から盛り上がった後まで見てきた人間としては、「人的資本経営」は、「知的資本経営」をいろんな意味で「参考」にしてほしいと思っています。

 

と、話が少し逸れましたが、「人的資本経営」ブームの兆しが見える中、為末氏が指摘した「ヒトを物のように」扱ったまま、ヒトを物的に扱っているという自覚がないまま、カタチだけ「人的資本経営」やってます、となりそうな兆しもまた、垣間見えるように私は感じています。
先に挙げた「知的資産(資本)経営」も、2000年代初めからすでに20年以上、政府は推進していますが、なぜ知的資産経営が必要なのか、そもそも知的資産とはなんぞや?なぜ、重要なのか?という本質的な理解ができないまま、カタチだけやってる風をしてきた場合、「知的資産経営やってます」というポーズのために労力は割いているけれど、何のためにやってるのか、意味あるのかが分からないブルシットジョブにしかなってないように私は感じています。

 

また話が逸れてしまいましたが、人的資本経営もまた、人的資本とはなんぞや、なぜ、人的資本経営が必要なのかを腹落ちして理解しないままだと企業組織もヒトの価値も上がりはせず、「ヒトを物的」に扱ってるのにそのことに気づけないような人たちが「自分たちは仕事してます」ポーズをとるためのカタチだけ「やってます」になりそうだと感じています。

この、「カタチだけやってます」にならないようにしようと思うと、これらの「資産」を「資産」という「モノ」、「道具」として見るのではなく、自分の関わり方次第で価値が変わる「イキモノ」として「付き合う」経験が必要になるように私は感じているのですが、「モノ」扱いをしない、もっと言うと「モノ扱いしてる」ことを自覚すること自体、簡単ではありません。

「ヒトを物的に扱ってる側」は「ヒトを物的に見る」ということに無自覚であるということは為末氏も指摘されておられますが、私自身、「ヒトを物的」に扱ってることに無自覚でした。

私が自分が「ヒトを物的に扱っている」ことに気づいたのは、東京サラリーマン生活を終了して関西でフリーランスとして暮らすようになってからです。東京で暮らしていた頃の私は、所属組織の外でいろいろな方とお付き合いしたり、自分が興味を持つテーマのイベントに参加するなどしてさまざま情報を吸収し、また、提供していました。当時はいろんな人からいろんな情報をもらっていたので、自分が情報を出しているという自覚は薄く、情報のgive and takeが成立していたのだと思います。

しかし東京を出て所属コミュニティを持たない放浪者となったことで、情報が入ってこない状態になりました。このような状態で、東京式で情報交換している方々とお付き合いしていると、自分が「知りたい情報を提供する情報処理装置=Googleとかアレクサ?」のように扱われているように感じることがありました。

かくいう私も、「目的を共有する仲間」を、無自覚のうちにその人が持つ経験やスキル、つまりスペックで選んでいたので、自分がモノ扱いされたところで文句のいえた筋合いではありません。

それでも、自分が「モノ扱い」されたと感じた経験があって初めて自分も他者をモノ扱いしていたことを自覚し、その自覚を得たことで、私は自他が他者をモノ扱いするか否かにこれまでより気を付けるようになりました。

 

知的資産・情報資産であれ、人的資本(資産)であれ、値段が示されていない、そもそも値段をつける対象自体が判然としない「価値物」の価値は、受け手により価値(値段)はおろか、その存在自体が認知されたりされなかったりします。

東京にいた頃の私にとって情報は、そこここに溢れ、それゆえ、さしたる「価値物」だとは認識しておらず、私と情報交換する相手もまた、私を「情報」という価値物を蓄えた「モノ」視してはいなかったと思います。

けれども、地方で暮らすようになり「情報」が不足する中で情報の「価値」を意識し、自らは情報を求めて行動しても情報が得られないのに、私に情報を求めてくる相手は情報不足で困っている私に関心を寄せることなく、私の情報だけを求めて去っていく。この、「情報不足で困っている私に関心を向けず」「情報だけを求められる」と感じたことで、私は、自分がヒトとして扱われず、モノ扱いされると感じたのだと思います。

 

情報に限らず、善意、熱意、やる気、あるいは人脈や経験など「ヒトが創造し保有する価値」は、その人がそれを生み出した背景・理由があって生み出され、それを提供することにもまた、理由があります。

「人的資本経営」や「知的資本経営」が「当たり前」になり、見えない価値物が意識されるようになること自体は好ましいと私は思います。しかし、もし、それらの価値物が生み出され提供される背景・経緯・理由に関心を寄せることなく、その生み出された価値物だけを評価対象として計測し、その増減を競うのであれば、結局のところ、ヒトを情報ややる気、人脈などを製造する「モノ」扱いすることからは脱却できないのではないか、と考えてしまいます。

 

ヒトやモノや情報は、溢れれば溢れるほど、その一つ一つを丁寧に扱えなくなります。

人口減少の時代、「人的資本経営」を形式上、導入したとしても、ヒトを物として扱う癖が抜けない、気づけない企業や人に持続可能性は期待できないな、と思います。