幸福論@現代日本。もっと言えば単なる私の幸福論。

大人気漫画、『鬼滅の刃』。昨年11月までまったく知らなかった私がコミック全巻持ってたりするんですが、その中に、禰豆子が「幸せかどうかは私が決める」って言う場面があります。

今朝、犬の散歩しながら、ふと、この場面を思い出した、というか、自分の子どものことも親のことも、私は幸せにはできないんだよな、と思いまして。

両親は80歳が近くなり、いまは二人で元気に暮らしていますが、そのうち赤子の面倒を見たように面倒を見ないといけない日が来るかも。そうなったとき、衣食住の世話をしてあげることはできる。でも、そういう生活になった時、親が「幸せ」と感じるかどうか。それは、私はどうしようもできないんだよな~、と思ったのです。

 

それは子どもについても言えることで、子どもがそれなりに満ち足りて暮らせるような生活環境は一応、整えてはやれる。でも、それで幸せと感じるかどうかは、子どもが何を幸せと感じるかによるのであり、私が幸せと感じる状態をつくったところで、子どもに幸せと感じさせることはできない。

 

子どもだろうが、親だろうが、幸せかどうかは、本人が何に価値を見出し、どんな時に幸せと感じるか次第。同じく『鬼滅の刃』には、獪岳という自己愛が大変きついキャラクターが「幸せを入れる箱の穴が開いている」と評される場面があるのですが、傍から見ればどれほど幸せな環境をつくってもらおうと、本人が自分が何を幸せと感じるのか知っていて、その幸せを手に入れようとしない限り、認めようとしない限り、ヒトは幸せにはなれない。

要するに、幸せかどうかは、本人次第。自分が何を幸せと思うのか、自分はどういう状況にいれば満ち足りるのか、その満ち足りた状況にどれほど本気で自分から近づいていこうとするのか、そこに近づけたことにどれほど満足を感じられるか。

 

ヒトと同じモノを持ち、ヒトと同じことをしたからと言って、自分が満足できるわけじゃないんですよね。

先日、宇宙旅行をしようとしている人のお話を聞く機会があり、宇宙旅行をしようとしたことで知遇を得た大金持ちの方から「うちに遊びに来いよ!」と言われて遊びに行ったらあとから何百万円とかの滞在費の請求が来た、とおっしゃっていました。その方は、そういう世界に触れることや、宇宙を経験することでご自身の好奇心が満たされることに幸せを感じられるようでしたが、私は同じことをしてもまったく幸せを感じないだろうな~と思います。

 

しばしば、結婚しましょう!というときに「あなたを幸せにします」なんて言いたいだの、言われたいだのありますが、「あなたを幸せにします」って、それはそちらの価値観で「幸せだよね!」という状況を作りますってこと。よしんば、結婚しよう!と盛り上がった時の二人の価値観がピッタリ一緒だとしても、結婚した後の長い人生、価値観なんて変わるんですよね。

仕事一筋だった人が子どもが生まれたら、仕事より子ども!って思うことは別段、珍しいことじゃないですし、大きな病気やケガをして価値観が変わることだって当然、あり得る話です。そうなったとき、価値観が違ってしまった相手を自分の価値観で「幸せにします」なんてやったところで、相手は幸せになれますかね。

なまじっか愛している相手を幸せにしたい、なんて思いが強いほど、自分が差し出す「幸せ感じるよね」に相手が心から幸せを感じないことに気が付くし、相手が幸せを感じないことにストレスもたまりませんかね。

 

何だかね、誰かに幸せにしてもらおう、とか、誰かを幸せにしたいって、それ、違うんじゃないかな、と。大事な人に幸せでいてもらいたい。そういう気持ちは素敵だと思います。

でも、大事な人を幸せにしたい、ってのは、ともすれば、自分の価値観で相手を支配することに繋がるし、大事な人だから私を幸せにしてくれるよね?って、いえ、大事な人だろうが何だろうが、何でもかんでも感じ方同じなわけじゃないし。同じでも一生、同じで変わりませんなんて保証ないし。

そういえば、私は四半世紀ほど前、家人に「あなたを幸せにしたい」と言われて、動物的反射で「いえ、結構です」とお断りしましたっけ。ま、私は昔からそういう人間だったわけです。

 

そしてやっぱり、人は自分で幸せになるしかない、って思ってます。自分が自分と向き合って、自分が何を幸せと感じるか自分に問い、自分が幸せを感じられるように自分が探すしかないんじゃないか。他人の幸せを本気で願う人であればこそ、いつまでも自分が幸せであることを認めようとしない、幸せであることが感じられずに幸せでないと思ってる人と一緒にいるのは嫌になるもんじゃないかと。

私の祖母が「不幸でいること」が好きな人で、そうなるとやっぱり、何か喜ばせようと思わなくなり、できることなら一緒にいる時間減らしたい、ってどこかで感じてましたもんね。

 

日本の先行きが暗いってことで、不幸だ、不安だと思う人は増えてるみたいですが、その背後に、自分の幸せは自分で見つけないといけない、気づかないといけない、探さないといけないんだ、という意識の欠如もあるような気がしています。

 

学校(小学校)は退屈だからキライ、マンガに動画にゲームで暇つぶし、特にやりたいこともなく家の外に出て行かない子ども(小学3年)には、頃合いを見て、「幸せ感じられるような環境は作れるけど、幸せにしてはやれないからね」と話そうと思っています。家でコンテンツ消費してるだけが幸せ、コンテンツ見るだけことだけが幸せってなっても構わないけど、あなたがコンテンツ見て幸せに暮らせるように私がいつまでもあなたの衣食住の面倒見るわけじゃないからね、と。頃合いは中学に入る前後くらい?ま、もうちょい、待たないとな。

両親にも「介護が必要になったら介護はするだろうけれど、その時、あなたを幸せにしてあげることまではできないから、いまのうちから、自分の人生は幸せだったと思えるようにしておいてね」と言っておこうかなと思っています。これは早い方がいいな。

 

私は、自分は幸せな人間、どちらかというとオメデタイ系の人間だと思ってたりするんですが、なんか、自分から何かしようってことなく、だら~、ぼけ~っとして、つまんない、とかいう人、他人を羨むばかり、自分は何するでもなく他人から何かを貰うとか奪うばっかり考えてる人って、案外、そこここにいるなあ、と思ったりします。

そういう人がそこここに存在できる日本って、結局、余裕あるんだと思うので、日本の現状もそんなに憂いなくてもいいのかも、と思う今日この頃。