パラダイムシフト(大変革)における「勝ち組」に求められるリスキミング(学び直し)

2022年4月16日に発生した、私と同世代(団塊ジュニア)で、マーケティング業界でご活躍されてきたという伊東正明氏の炎上事件。

 

4月22日には、タレントでエッセイストの小島慶子さんが、炎上事件を起こした伊東氏がご自身(&私)と同世代の「団塊ジュニア」であるという切り口から「勝ち組団塊ジュニア」について、思うところを書いておられます(「生娘シャブ漬け戦略」の伊東氏は「昭和の負のレガシー」を引き継いだ団塊ジュニア(webマガジン mi-mollet) - Yahoo!ニュース)。

記事によれば小島さんは、30代になった頃、①団塊ジュニアは人口が多いため、社会を変えられる可能性があり、②「上の世代は当たり前と思っているけれど、下の世代にとっては不都合だし、当たり前ではない」習慣や価値観を団塊ジュニア世代が変革できればいいな、と思っていたそうです。けれども、40代になるとメディアで「勝ち組」ともてはやされている同世代の男性たちが、弱者を嘲り切り捨てるような発言を繰り返すようになって残念に感じたそうです。

小島さんは、「格差社会の上澄みに入れた同世代の男性たちは、男社会の枠組みの中で既存の価値観に従っていればうまくいってしまった。だから、形の上では平成、令和と時代をリードしてきたように見えても、根本的な価値観は昭和の負のレガシーを引き継いでしまっている人が少なくないのではないか」と書いておられます。また、小島さんご自身が他者に敬意を払わない、他者の弱さを嘲るメディアの表現に毒されていることに気づいて、弱者を嘲笑うことを許容するかのようなメディアの「空気感」をご自身から抜き去るのには時間がかかったとも書いておられます。

 

この小島さんの記事を読んで、実は私自身、まったく無意識・無自覚のうちに「格差社会の上澄み」に入れてしまい、自分がいる「上澄み的」なコミュニティの基準で「劣る」人に敬意を払えないようになっていたという居心地の悪さを感じていました。

私は社会に出て以降、東京で働き、2000年代には当時の政策の一丁目一番地であった知財立国・科学技術立国政策を牽引する方々と偶然、知遇を得るようになりました。知遇を得た方々は、組織を超えて繋がる方々で、彼らも私自身も「勝ち組」であるという自覚はまったく、ありませんでした。

しかし東京でのサラリーマン生活に終止符を打ち、組織に属さない「名もなきフリーランス」として関西で暮らすうちに、東京にいた頃の自分は「勝ち組」といわれる人々の中でしか暮らしていなかったと気が付くに至りました。とはいえ私自身には、自分が勝ち組コミュニティにいる、同種同質の「狭い」コミュニティにいるという自覚がありませんでした。

東京にいた頃の私が暮らしていたコミュニティの「狭さ」については、作家のカズオ・イシグロ氏が以下のように説明しておられます(カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ | 読書 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース)。

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俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。

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東京で暮らしていた頃、自分がインテリという自覚も薄く、所属組織の中は「家と職場」の外の世界すら知らない人も少なくない、というよりむしろ多数派だったことから、所属組織や住んでいる地域、育った土地も違う人たちと付き合っている自分は「いろんな世界」を知ってるつもりでした。

その「間違い」を知ったのは、大阪の郊外に住み同じ地域に住んでいる「本当にまったく違う世界」に住んでいる方々がどのように働き、どのように暮らし、何に興味を持ち、何をどのように感じているかを知ったことによります。

いろんな人がいる東京で、職場の外の付き合いを持ち、見聞を広めてきたつもりの自分は、結局のところ、自分の興味の範囲、自分が「わかる」範囲しか見てなかった、興味を持たなかったという事実に直面して初めて私は、恥ずかしながら自分の「無知」すら認知できてない自分を認知したのです。

まさに、ソクラテスの言う「無知の知」に至って初めて、自分が知らないことは無限にあり、であればこそなお、自分が「知らない」ことに真摯でなければならないと思うようになりました。つまり、どれだけ学び、知を増やしても完全はあり得ない、だからこそ、「自分はわかってる」と傲慢にならず、常に学び続けなければならないことを自覚するようになりました。

 

私自身にこうした経験があるため、伊東氏のご発言は非難されるべきものであると思う一方で、伊東氏の件を以て伊東氏を糾弾するより、人は誰でもすべてを知っているわけではなく、ゆえに間違う生き物であること、それゆえ学び続ける必要性を「自分ごと」として意識しようという動きを醸成できればと思います。

団塊ジュニアも50代となり、心身の衰えを感じる中で、ともすれば「勝ち組」といわれるような、しかるべき地位におられる方ほど「ここまで頑張ってきたのだから」と思って楽をしたくなる気持ちは、それこそ「自分ごと」として理解できます。

小島さんの記事を読んだ同じ日、脳科学者の中野信子氏と精神科医和田秀樹氏におる対談本の紹介記事を読みました(日本人は「世界一アタマが老化している」…中野信子と和田秀樹が警鐘を鳴らすワケ(中野信子,和田秀樹) | マネー現代 | 講談社)。

こちらの記事は前例踏襲だったり「専門性」の穴に閉じこもること、つまり「未知の領域」を知ろうとせず「自分がわかる範囲」に籠ることに警鐘を鳴らしています。

「すでに知ってることにだけ関心を示し、知らないことには無関心」については、またもや同じ日に読んだコンサルタントの安達裕哉氏のブログでも取り上げられていました(「知らない言葉をすぐに調べない」のは、社員失格だと言われていた。 | Books&Apps)。

さらに、4月27日付日本経済新聞経済教室には「分配と成長、高質な市場カギ」と題して、力が強い者が弱者を抑圧してはならないことが説かれています。同じ紙面の私見卓見では「集合的知性を意思決定に活かす」と題して優れたリーダーは自分自身の視点の限界に謙虚に向き合い、自分(たち)の「外」の視点を取り入れ活かす必要性と、「自分の外」を認知し、自分の認知の限界を補完するスキルは何歳からでも、一生を通じて伸ばせると書かれていました。

 

努力する人ほど、「勝ち組」になったことは自分の努力の結果であり、自分は努力したことにより「高い」位置に達したのであり「低い」ところにいる人は努力が足りないと考えるのは、その領域での専門性、専門能力の優劣を競う限りにおいて、間違いではないと、私は思います。ただし、人は生まれ持った素質も育った環境も異なり、誰もが同じように努力できるとは限らず、同じように努力しても同じような結果が得られるとも限りません。
大ブレークした漫画『鬼滅の刃』には、「生まれたときは誰もが弱い赤子だ。誰かに助けてもらわなければ生きられない」「強い者は弱い者を助け守る」「弱い者は強くなり、また自分より弱いものを守る」という台詞があります。努力して高みに至ったのであればなお、本人の責めに帰すことない理由で努力できない人もいること、そうした人を援けこそすれ虐げてはならず、そうした人やこれから努力して高みを目指す人を支える必要性を理解することが求められると、私は考えるに至りました。

 

サッカーで世界一のスキルを持つ人が、蹴鞠で最も優れた人であるとは限らないように、世の中には「別の世界」が無数にあり、「別の世界」には「別の世界」で求められる技能、スキルがある。

人生100年時代を生きる私たちは、一生を一つの世界でのみ、生きることは難しいと考えられます。40~50代までに努力が実って功なり名を遂げ「然るべき地位」を得たのであればこそなお、「別の世界」で「弱い赤子」として世の中を違う角度から知る「学び直し」が必要だと痛感しています。