資本主義と「価値」の変わり目

私は1971年生まれ、いわゆる第2次ベビーブーマー団塊ジュニアです。

ですから私は20年以上、経済成長率1%前後の低成長の時代の中で何度かの転職を経ながら働いてきたのですが、経営者は誰も、そしていつも「売上高up」「利益の拡大」を求めていました。

右肩上がりの売り上げ、市場、経済。そんなものはもはや過去、たとえ市場を海外に求めたところで地球が無限に膨張するわけでなし、いつしか市場の拡大、売り上げの成長は止まるでしょう?経済が永遠に成長するなんてありえない。

私は長らくそう考えていました。

 

それがつい最近、”富”を生産すれば経済は成長し続けられるのだということに気が付きました。”富”とは経済社会において人・社会が求める何か。人や社会は常に何らかの”価値ある何か”を求める以上、その時々に求められる「価値ある何か」を生産し続ければ、生産された富は理論的に増やし続けられる!

ある決まった「価値ある何か」を生産し取引する市場は永遠に拡大し続けることはない。でも、「価値ある何か」を生産し取引する市場は生産・取引対象をその時代時代で求められる「価値ある何か」に変更していけば、生産・取引される「価値ある何か」の総量は増え続ける。

 

「資本主義」はいろいろな定義がありますが、私なりわかりやすく定義すれば「欲望を材料にカネを生む仕組み」ということになるかな、と思っています。欲望、つまり人や社会が求める「価値ある何か」を求める気持ち。「価値ある何か」を求める気持ちに応えようと「価値ある何か」を生産する人と「価値ある何か」を求める人とがカネを介して「価値ある何か」を交換する。「価値ある何か」を求める個人の気持ち、その気持ちに応えようとする個人の気持ちを燃料に、カネが回る。これが資本主義の市場かなと。

 

その「価値ある何か」は時代や地域で異なります。20世紀の日本では長く「価値ある何か」はモノでした。20世紀後半から最近まで、日本を含む先進国、特に米国を中心とした金融資本主義における「価値ある何か」は「カネ」そのものだったようにも思います。

 

20世紀後半から日本を含む先進国では、人や社会が求める「価値ある何か」は「モノ」から「コト」に変化したといわれています。その「価値あるコト」は「愉しい」「ラク」「快適」「便利」「簡単」といった価値観にフィットするコトであったように思います。

それが21世紀に入り、地震、台風といった相次ぐ想定外の災害の中で「安心」「安全」が「価値あるコト」として求められるようになりました。今回のコロナ禍で「安全」「安心」はより多くの人がより強く求める「価値あるコト」になるのだろうと思います。

同時に、コロナ禍の中で「価値あるコト」として株を上げる、「安全」「安心」とは別の価値観、概念もあるように感じています。コロナ禍の中で株を上げてくる「安全」「安心」以外の価値。私は、S社が内包している価値観の幾つかは、コロナ禍の中で株を上げてくる「安全」「安心」以外の価値ー例えば「地方」や「分散」-と重なるんじゃないかな、と思っています。