心の若さ~成功は老いのもと

「青春とは、心の若さである」というサムエル・ウルマンの詩の一節は知っている人も多いでしょう。

サムエル・ウルマンは「年を重ねただけでは人は老いない。人は理想を失うときはじめて老いる」と詠いましたが、50歳目前という老いのとばりに立った私はいま、「人は理解しようとすることを止めたとき老いる」のではないかと感じています。

 

私は昨日、新入社員研修の講師を勤めたのですが、年若い受講生は、自らは何も知らない、何もできない存在であることを当然としているがゆえに、知らないことを知ろうとします。

「知らないがゆえに知ろうとする」彼らには、人としての素直さが感じられました。一方、年を重ねて「わかっている」ことを蓄積した人や、知的好奇心が強く「知ってること」がたくさんある人には、「この人とは話をしても意味がない」と思わせるような傲慢さを感じることがあります。

 

養老孟司さんは『バカの壁』で、何かを理解するとき、これ以上、理解できないとして理解しようとすることを止めてしまうことを「バカの壁」と表現しました。まだ何者でもなく、知らないことばかりだと思っている人は、理解しようと前進し続けるので「バカの壁」を作らない。一方で、自分はわかっている、知っていると思っていれば、自分がわかっているつもりのことについて、自分とは違う解釈や考え方を理解する必要性を感じない。結果、わかっている、知っていると思っていることが多いほど、人は「バカの壁」を築き、自分がわかっているつもり、知っているつもりのことについて、まだ知らないこと、わかってないことがあることに向き合おうとしない。

 

かくいう私は単純に知りたがりで、気が付けばたくさんの「知ってること」「わかってるつもり」のことを抱えていました。自分の興味と関心の赴くままに無意識のうちに蓄積した「知ってること」「わかってること」は、私に知らず知らずのうちに「バカの壁」を築かせ、私を傲慢にしていたと思います。

私の周りには私と同じように、興味と関心の赴くままにたくさんの知識を持った年少者や、知識だけでなくさまざまな「体験」も蓄積した同世代や年長者がいます。

20年を超える社会経験を持つ同世代以上の「わかっている」人たちは、自分がわかっているつもり、知っているつもりのことに、自分がまだ知らないこと、自分とは違う捉え方、解釈はあり得ることをわかっています。けれども、私を含めた彼らの多くは、自分がわかっているつもり、知っているつもりのことの「別の一面」を「理解する」「余裕がない」、と言います。

自分が「わかっている」つもりとしてきたこと、とりわけ、それが無意識のうちに否定したり嫌っていたりしたことであれば、そのことの「別の一面」「自分が知らなかったこと」に目を向けることは、自分の心をざわつかせます。老いを自覚し始めている50歳前後以上で何らかの責任なる立場にあればこそなお、その心のざわつきと向き合う「余裕」はありません。

こうして人は「心の若さ」を失うのだ、そう、思います。

 

一方で、まだ体力も気力もある20,30代で「知ってるつもり」の年少者は、短期的成果を求める世の中で、早く成熟しよう、早く「何者か」にならなければならない、結果を出さねば、という無意識のプレッシャー、焦りを感じているように見えます。

「砂糖が甘い」ということを知識として「知っている」ことと、砂糖を舐めてその甘さが自分にどのような感情、価値を与えるのかを知って「砂糖が甘い」ということが「わかる」こととは違います。世界中の情報がインターネットで得られる時代、世界どころか宇宙にあるもの、出来事はすぐに「知る」ことはできます。オーロラが雄大で心を揺さぶられるという「体験談」を「知る」ことはすぐできるけれど、自らがそれを体験して「雄大なオーロラ」やそれに「心を揺さぶられる」ということがどういうことかを自分のものとして「わかる」には、体験が必要で、体験するには時間が必要です。

世の中にあるすべての仕事には「やってみなければわからない」その仕事の苦しさ、愉しさ、深さ、意味、価値があります。世の中の、くだらないと思うようなことの意味が「わかる」ようになるには、それなりの時間がかかります。

けれど知識がいっぱいで”デザイン思考”が上手い戦略家や年少者は「知識」を持てばわかったと思う。あるいはその逆で特定の領域の「具体」「個別」を磨き上げた職人や年長者は、自分の世界のことは知ってるし、わかってもいるけど、別の世界を知らず、知ろうとしない。

それでもそういうタイプは成果を出せてしまうことも多く、成果が出せるゆえに自分が知ってるつもり、わかってるつもり以上・以外を理解する必要性を感じづらい。そうして「知らないから教えて」「わかってないのでわかりたい」という姿勢をなくし、価値観の異なる年少者や違う意見の人の話を聞けない「心の若さ」を失った人になっていく。

 

100年時代と言われる人生の折り返し点に来て、知りたいことがあったから知識が豊富になった人、やりたいことがあってやり抜いてきたから成果を出した人ほど、他人の話が聴けずに心が老い、いよいよ身体が老いる頃には世間の感覚とズレて成果も出せず愛嬌もないただの面倒な老人になるリスクが高いように思えています。

 

ビジネス者として大成功した人生を「喜びが少なかった」と振り返って逝ったスティーブ・ジョブズは、人生の最期で、人と関わり合うこと、自分の周りにいる人を大切にすることの価値を説きました。若くして成功を収めたFacebookマーク・ザッカーバーグは「人の話を聴かない」状態になっているのではないかと言われています。

「何かを為す」「何者かになる」ために努力し、成功を収めた結果、人の話が聴けないお山の大将、裸の王様になる。私の感覚では、何かを為した、何者かになった領域で15年以上、リーダー的存在でいる45歳以上には異論を言う人がいなくなるため、心が老いていくようです。何かを為そう、何者かになろうと焦る45歳未満もまた、心が老いているように見え、それは、自分が興味や関心を持たない物事の価値を知ることを「無駄」として否定し、知ろうとしないからであるように見えます。

 

膨大な情報が世界中を駆け回る時代は、持っている知識の多さは人の価値にはならず、変化の激しい時代において蓄積した経験知は陳腐化し「時代遅れで世間とズレた価値観・判断」を招くように思います。情報が溢れ、変化が激しい時代は、多くの知識を早急に得て、あるいは特定の領域に籠って成果を出そうとすると、心が老いてしまうのではないか。

目まぐるしく移り変わる時代の中で長寿を得た私たちは、人目を惹く成功より、もっとゆったりした気持ちで人生を味わうことに価値をおいてもいいのではないか。自分が無意識のうちに知ろうとしていない何か、自分が価値なしと判じて否定している何かの価値を理解しようとする「無駄」な時間を持てることは、いまの私には、人目を惹く成功より価値があるように思えています。